日々の備忘録

なんでもない日常やお話を。

息してますか?

わたしは【愛を受けること】がとても苦手だ。

自分からなにかを渡したりすることはサラッと出来る。なのに人からなにかをプレゼントされたり、大きな優しさや愛を貰うとどうしていいか分からなくなる。

貰うことが嫌なわけではない。

とても心が温まるし、涙が溢れたりもする。

人がくれる愛のカタチはそれが形あれどないものであれど、とても尊くとても儚くとても優しく心を潤してくれると思っているから。

 

私は自分の過去の話をすることはあまり好きではない。

あまり明るい話が出来ないし、すべて過去のせいにしているようで自分のことが嫌になってしまうから。

 

でも今回のブログだけは過去の私を少し見つめてみようと思う。

 

…振り返ると受け取るより渡す方が多い生活だった。絶対的な存在がいてその存在の大きさからいつも萎縮して小さく生きてきた。

喋ることも怖かった。なにかをすれば怒られる…でも相手の気持ちをよみ求められるであろうことを先に行動しなければそれも怒られる。

おかげさまで今は人の行動を読むことも出来るようになった。空気を読むことも読まないことも出来るようになった。

自己肯定感なんてものが存在していることすら知らなかった人生だった。

どれだけ自分を薄めて相手をたてるか、それが1番息ができる方法だった。

 

しかし、小さな頃からそうやって生きていくと、、まぁなんとも難しい性分になってしまった。

大人になって数年、ようやく今は空気を読まずいようとか、いい感じに息も抜けるようになったけど、恐怖はずっと取れなかった。

誰に対してもそうだ。

なにをしてもしなくても怒られることは最強の恐怖だ。子供を何も出来なくさせる。

心では理解しても、体が言うことを効かなくなる。

言葉と心と身体がバラバラになってしまうような感覚でずっと存在してきた。

 

今だって心と身体がバラバラな日は沢山ある。

まだまだ治まらない恐怖と闘って、何度も泣いて、隠して生きている日もある。

薬を飲みながらいつまでこんなことしてるんだろうって悔しい気持ちになることもある。

 

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ハラ、インタビューでは10年後について語っていてそのすぐ後に空へ行ってしまった。

私はいまだハラが居なくなった実感もない。

 

人は当たり前に明日も明後日も存在してくれているなんてありえない。

明日も明後日も会えることは、10年後のあなたが、わたしが存在してることは奇跡だ。

 

なにがあるか、どうなるか分からないからこそ、こんな不器用な生き方でも存在していたいと思うのは許されるのだろうか。

 

わたしのたったひとつの自己肯定感…どこかに落ちていないだろうか。

大きな愛を素直に受け取れる人になりたい、と切に願って今日も息をしています。