日々の備忘録

なんでもない日常やお話を。

あと7日!

 

少し早めだけど、少しずつ今年を纏めていこうと思う。

 

私は毎年今年の漢字と来年の漢字を決めて1年を終える。

今年はなんだろう…数日考えているけれど、まだピンとこないのだな。

来年はすぐ思いついた不思議。

 

2021年は『余』をベースに生きていこうと思う。

予定ってわりときちきち詰めてしまいたくなるけど、余白があるくらいのスケジュールの方がそういうものが心の余裕を生むのかなって。

今年はあまり出かけることはなかったし、お家にいる時間は格段に増えたけど、それでもやはり逆をいえば、なにかしらの用事をもって外に出る時は一気に色々済ませてしまおうときちきちに詰めて秒刻みで動いてた気がする。

そうすると家に帰ると、どっと疲れちゃってるのだな。。(元々体力ゲージもHP10くらいしかない←満タンだった時なんて人生でほぼない。)

 

2021年は他人からしたら「え!ほとんどスケジュールガラ空きやん!」くらいの予定で動いていきたいと思うし、自分だけの時間をもっともっと増やしたい。(←その時間で体力つけたい。)

 

友達や友達の御家族や旦那さんに医療に携わる方々が多かったから尚更「私がコロナになれば友達の負担が増える」って思ってより気をつけてなるべく出かけないようにしてたし、来年ももっともっと気をつけよって個人的には思ってる。

 

2021年…『余』

余白、余裕、余るくらいの余裕を心にも時間にも体にも持って余裕のある人間になる!

 

そしたら2020年は『気』かなぁ。

気づくことや気づけたことがとっても多かったから。

これは今度まとめて書こう。

今年あったことも書いておかねば!

 

ではメリークリスマスイブ!

よいクリスマスを🎄🎄🎄

産まれた日

人間30年目に無事突入することが出来ました。

 

憧れていた30代。

夢の30代。

それだけでもう目覚めた瞬間から清々しい気持ちだった。

長年願い続けていた夢が叶った。

とっても嬉しくて、周囲の方々に有難い気持ちでたくさん。

 

誕生日に夢が叶うなんて、ラプンツェルみたい。(あんなに髪は長くないし、なんでも出来るわけじゃないし、大それた勇気は持ってないし、大冒険もしてないけど←)

 

生きていたら美しい出来事だけでは日々を語れないですよね。

切り取ったものは水面の上だけの静けさで、ほんとは水の下の足元みたいな出来事がたくさんあって、それでも静けさを保ってみんなスクっとそこに居るんですよね。

自分のことすら分からないのに、相手の考えてることを考えたって、分からない時もありますよね。

伝えあってはじめて分かることがありますよね。

 

日々小さななにかを手のひらですくいあげるように、日々ゆったりと丁寧に。

好きなものに、好きな人に真っ直ぐに。

 

休む時間も大切に。

生きていきます。

ゆっくりゆっくり

前回のブログを書いてから、

とても荒れた日々を送っていました。

 

人前で号泣したり、無気力になったり、

疲れやすかったり(←これはいつも。)…。

 

号泣したのは、つい先日のこと。

初めてパニックというものを起こした。

 

可愛い可愛い小さなお友達(友達の姪っ子ちゃん)と遊ぼうと3人で部屋にいた時。

子供の声が嫌に身体に大きく響いて急に部屋が閉鎖的な場所に感じ始めて、、そこから気付いたら震えが出ていることに気づいて、友達が気づいてくれた時には声も出せなくなっていました。

薬を飲んでも効くまでに少し時間がかかるから

、その間に2人には部屋の外に行ってもらったり、なんだかおおごとになっていると思うとまた怖くて、今まで出来ていたことがことが出来なくなっていることが悔しくて、2人にも申し訳なくて、自分が情けなくて気付いたら人のベッドで泣いていました。(←迷惑)

 

そのまま車で送ってもらいながら、号泣しつつ(←やばいやつ)、自分の気持ちや想いを吐露させてもらって…友達はちゃんと聞いてくれて、運転しながらで大変なのに、ほんとに驚きながらも、頑張ってくれて。

 

帰ってからも寝るまでは泣いたり、泣き止んだりを繰り返して、疲れ果ててその辺に倒れ込みました。。_(⌒( _冫、)_

 

その次の日からは言葉とかはまだ上手く出ないけど、少し晴れたような、安心したような気持ちで、上手く話せないけど、まだ苦しいけど、それでも息してていいんだって。

上手く話せないけど、ゆっくりゆっくり話してもいいんだって。

 

なにに脅えてるかってってことは、自分で自分自身をコントロールすることも、そのやり方もわからなくなったってこと。

今まではできていたのに、出来なくなっちゃったってこと。

それをずっと探してる。

 

そんな感じです。

まだただの生活の部分でもすぐ疲れちゃったり、怖いことも沢山あるけれど、周りが理解してくれようとしてくれるので、私もゆっくりゆっくり自分の気持ちを話していこうと思います。

 

 

わたし=わたし

魔の3週間。

365日(366日)の中で1番深く重たいその3週間は毎年必ずやってくる。

 

私は10/2に産まれている予定だった。

そこからなぜだか分からないが予定を大きくずらし、3週間を母のお腹でぬくぬく過ごし、10/23に産まれた。

(私は出産の細かいことは知らないけれど、今とは違って3週間赤ちゃんがゆっくりしててもなにも言われなかったようだ。たぶん。)

 

心が忙しい。深く重たい気分になる。

生と死についてひたすら考えている。

それが毎年この時期だと気づいたのは10年くらい前からで、正直普段から生と死については考える時間も多いし、重たい気分になることもある。(去年鬱と診断されてからは尚更。)

だけど、この時期のは全然比べものにならない。普段は気合いやら我慢で乗り切れる事も【出来ない】のだ。

なにも出来ない、考えられない、黙っていたら涙が出てくる、苦しい、息もきちんとできない、、とにかく憂鬱、無気力、空っぽ、そのものだ。言葉を自分自身の身体という入れ物を持って体現しているような。

 

私には精神安定剤というパートナーがいるから持っている時は少しだけ心強く安心だが、精神安定剤には(もちろん他のお薬にも言えるけれど)副作用もある。

欲という欲を抑え込むのだ。

飲めば飲むほど、体がどんどん何かをしたいという気持ちや欲望を失っていくような、そんな気分になる。落ち着いているというより、どんどん無になっていく感覚。

それが怖くてこれ以上薬を強めることを恐怖に感じてもいる。

 

落ちている時の自分はまるで私の形をしたただの入れ物で、そこにはなにも入っていない。

 

今の環境から抜け出してしまえ

変えてしまえばいいじゃないか

我慢しろ

 

そう言われることも多い。

そんなこと出来たらとっくにやっていて、そこから抜け出すにはまたそれに対しての労力が必要で、でもそんな力は出す気持ちにはなれない。だったらこの入れ物を消してしまう方が楽。そう思う気持ちもよく分かる。

 

ここ最近のニュースはとても悲しくて、たくさんの輝ける人達が空で星になった。

いろんな憶測や話が流れた。

本当の理由なんて本人にも分からないのに。

 

もし、もしも今後あなたの周りの大切な人が居なくなっても、決してその人を責めないで。

その人が選んだ選択がなにであれ、それはその人の人生で終末だ。

選択する権利は本人にしかない。

 

そしてその大切な人が痛みや悲しみや抱えてるものに気づかなくても自分を責めないで。

そういう人たちは大抵とてもとても頑張って隠しているものだから。深いところの本当は、本人にも気づけないことだったりするから。

 

そしてもし、そんな話を受け取る日があれば、ただちゃんと聞いて欲しい。

否定をせず、アドバイスもせず、真っ直ぐ聞いて欲しい。

ただそれだけでとても救われるから。

ただただそれだけで溜まっていたものが溢れ出すこともあるから。

 

手を差し伸べることはない。

優しい眼差しだけで充分だ。

優しい言葉もいらない。

受け取ってくれるだけで、聞いてもらえたというだけで。

 

きっとそれだけで、充分、充分嬉しい。

 

 

 

息してますか?

わたしは【愛を受けること】がとても苦手だ。

自分からなにかを渡したりすることはサラッと出来る。なのに人からなにかをプレゼントされたり、大きな優しさや愛を貰うとどうしていいか分からなくなる。

貰うことが嫌なわけではない。

とても心が温まるし、涙が溢れたりもする。

人がくれる愛のカタチはそれが形あれどないものであれど、とても尊くとても儚くとても優しく心を潤してくれると思っているから。

 

私は自分の過去の話をすることはあまり好きではない。

あまり明るい話が出来ないし、すべて過去のせいにしているようで自分のことが嫌になってしまうから。

 

でも今回のブログだけは過去の私を少し見つめてみようと思う。

 

…振り返ると受け取るより渡す方が多い生活だった。絶対的な存在がいてその存在の大きさからいつも萎縮して小さく生きてきた。

喋ることも怖かった。なにかをすれば怒られる…でも相手の気持ちをよみ求められるであろうことを先に行動しなければそれも怒られる。

おかげさまで今は人の行動を読むことも出来るようになった。空気を読むことも読まないことも出来るようになった。

自己肯定感なんてものが存在していることすら知らなかった人生だった。

どれだけ自分を薄めて相手をたてるか、それが1番息ができる方法だった。

 

しかし、小さな頃からそうやって生きていくと、、まぁなんとも難しい性分になってしまった。

大人になって数年、ようやく今は空気を読まずいようとか、いい感じに息も抜けるようになったけど、恐怖はずっと取れなかった。

誰に対してもそうだ。

なにをしてもしなくても怒られることは最強の恐怖だ。子供を何も出来なくさせる。

心では理解しても、体が言うことを効かなくなる。

言葉と心と身体がバラバラになってしまうような感覚でずっと存在してきた。

 

今だって心と身体がバラバラな日は沢山ある。

まだまだ治まらない恐怖と闘って、何度も泣いて、隠して生きている日もある。

薬を飲みながらいつまでこんなことしてるんだろうって悔しい気持ちになることもある。

 

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ハラ、インタビューでは10年後について語っていてそのすぐ後に空へ行ってしまった。

私はいまだハラが居なくなった実感もない。

 

人は当たり前に明日も明後日も存在してくれているなんてありえない。

明日も明後日も会えることは、10年後のあなたが、わたしが存在してることは奇跡だ。

 

なにがあるか、どうなるか分からないからこそ、こんな不器用な生き方でも存在していたいと思うのは許されるのだろうか。

 

わたしのたったひとつの自己肯定感…どこかに落ちていないだろうか。

大きな愛を素直に受け取れる人になりたい、と切に願って今日も息をしています。

心のHome

 

〝なにか足りない…〟

 

そう思いながらここ数日過ごしていた。

あぁでもない、こうでもない、と模索しながら、この自粛1ヶ月強で私は部屋の中の必要なくなったものを手放す作業に没頭していた。

洋服、漫画、雑貨、バック、、、

洋服は段ボール4つもあったのですべて寄付して、バックは気になっていたサイトで査定してもらったり。

気づけば部屋はとても軽く風がスーッと吹き抜ける明るさを取り戻していた。

たくさんのものに溢れすぎた生活は、部屋を重く気持ちまで雑にさせていた気がして。

 

本当はもっともっと削っていきたいところだが、とりあえずのひと段落。

そうやって片付けていくと、足りなかった必要としていたものが見えてきた。

手書きの文字や本、とにかくデジタル以外の文字や文、、私はそれらを欲していた。

目に入れたくてたまらなかった。

 

私が唯一持っている雑誌(…マガジンと呼ぶのだろうか)はこのマッシュのみ。

1-10まで全て揃えて何度も何度も読んでいる。

 

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小さな頃からデジタルなものよりも手書きやアナログなものに、最新のものよりもレトロなものに、心惹かれてやまない私にはとてもぴったりのムック本である。

 

別にトレンドが載っているわけじゃない、その時その時の流行が読み返してわかる訳でもない。

でも私にとってはとてもとても必要な本だと思って、これはこの先私がどこへ行ってもどこで生きようとも必ず連れていく本だとおもう。

 

他にもスケッチブックに文字を書いたり、絵を描いたり、友人に手紙を書いたり、英語で日記をつけたり…私の毎日はそうやって過ぎていく。

そういう時はYouTubeでDisneysongを流しながらやるのでとても穏やかになれるし、それぞれのことに集中できる。

 

部屋にこもって家でなにかをするしかない今、今までの当たり前がとても貴重なものだったと気付かされた今、改めてアナログなものに触れて心整えていこうとおもう。

 

会いたい人に会える生活を、

行きたい場所に行ける生活を、

また手にできますように。